インタビュー

日野煉瓦ものがたり
明治の夢のかけらを訪ねて

「めがね橋」から明治時代のレンガが出た!

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2代目めがね橋

中央線にかかる通称「めがね橋」は、立川の柴崎町と富士見町を結ぶ小さな橋。今年の3月から架け替え工事が進められているが、そんな夏のある日、掘削作業中の現場から、「昔のレンガが出た!」との連絡をいただいた。

昔のレンガとは、初代「めがね橋」を支えていたレンガのこと。JR中央線の前身である甲武鉄道が開通した、明治22年当時のものと考えられる。

コンクリートや土の下から慎重に発掘されたレンガは、120年前のものとは思えないほど、ぽっと華やかな赤色をしていた。さて、これらのレンガはどこで造られ、どうやってこの場所に使用されたのだろうか? ちょっとその背景を探ってみることにしよう……。

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初代めがね橋
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日野煉瓦は218ミリ以上あり、
現在のJIS規格より大きいサイズ。
これによって見分けがつくという。

鉄道開通に捧げた『日野煉瓦』の歴史

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日野第一中学校の外壁に取りつけられたモニュメント。刻印されたHBWとはHino Brick Worksの略。海外のレンガにはWorksではなくCompanyのCが刻まれているので、この刻印が日野煉瓦のものとわかる
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甲武鉄道、新宿―立川間と立川―八王子間が開通したのは明治22年。その鉄道建築の資材として必要とされたのがレンガで、これらのレンガは、かつての日野宿の東端にあった『日野煉瓦』で製造されていたという。この場所は現在の日野市日野周辺で、ちょうど日野警察署の向かい側一帯にあたるらしい。

『日野煉瓦』は、日野宿の土渕 英(はなぶさ)、高木吉造、河野清助らによって設立。明治20年の10月に日野煉瓦製造所の新設認可願いを提出し、翌21年1月には、早くも本格的に操業を開始している。しかし操業期間はわずか2年半、土淵氏の急死によって明治23年8月に惜しくも廃業となってしまうのである。

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この短期間に製造されたレンガはおよそ50万個。多摩川鉄橋の橋脚には、その内20万個が使われたと言われている。言い換えれば、日野煉瓦設立の最大の目的は、多摩川鉄橋建設にあったと考えられ、その実現に全てをかけた2年半であったと言えよう。工場で連日造られた日野煉瓦は、多摩川鉄橋をはじめ、浅川鉄橋、山中眼鏡橋(立川市/先述の通称めがね橋)など立川―八王子間の諸施設に多く活用された。

『広報ひの』によると、明治22年8月11日、立川―八王子間が開通した折の祝賀会では、豊田にあった『山口麦酒』から寄贈された300本のビールが、出席者の喉を潤した……とある。郷土の近代化を夢見て共に汗した人々にとって、「外国輸入の品にも劣らない味」の山口麦酒は、まさに甘露であったに違いない。

今も残る『日野煉瓦』をめぐる散歩

日本のレンガ建造物として有名なのが、明治21年築の「北海道庁旧本庁舎」、明治44年築の「横浜赤レンガ倉庫」、そして大正3年築の東京駅などがあげられる。明治中期にはレンガ職人の数も増え、まさにレンガは明治の近代建築になくてはならないものであった。しかし大正13年9月の関東大震災によって、レンガ建造物の多くが被害を受け、やがて鉄筋コンクリートにその座を取って代わられた。

さて、我らが『日野煉瓦』も同じ歴史を歩んできたが、関東大震災や太平洋戦争の空襲をも絶え抜き、現在もいくつかの建造物が残っている。風雨にさらされたその赤レンガの手ざわりは、温かく、やわらかい。日本の輸送の大動脈を支える鉄道の開通、そしてそのためのレンガ造りに情熱を燃やした明治の青年たちのぬくもりが、そこにある。

下堰

日野駅から東に向かった線路下にある下堰。水路の上り線側には、当時の日野煉瓦がそのまま残っている。

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上堰

日野駅に近い上堰には、用水が流れる両サイドに日野煉瓦が使われている。

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多摩川鉄橋の橋台部分

日野駅から東へ向かって、列車が発車するとすぐに渡る多摩川鉄橋。その入口の橋台部分にも当時の日野レンガを見ることができる。

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上り線の橋脚

鉄橋下、上り線側の橋脚には日野煉瓦がそのまま残っている。この橋脚は土台の下を8メートル掘ってあり、当時は潜水服を来た作業員が橋脚を造った。それを日野側の土手に弁当手持ちで見に来ていた人が多かったという。

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根川にかかる橋台

立川に唯一残っている日野煉瓦使用の場所。かつての根川はもっと幅が広くて水量が多かった。以前はもっと大きな鉄橋がかかっていて、これはその残骸。

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飯綱権現

日野駅ホーム近くにある飯綱権現。こちらの社の土台に日野煉瓦が使用されている。積み方は「イギリス積み」。甲武鉄道、立川―八王子間が開業した明治22年9月に、社の工事に着手したと記録にある。

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文:佐藤由紀子
取材協力:日野市教育委員会 文化スポーツ課文化財係