インタビュー

雑草を大輪に —拓殖大学陸上競技部 監督 岡田正裕氏

雑草を大輪に ‐ 
拓殖大学陸上競技部  監督 岡田正裕氏

グングン空に向かってのびていく芽。
ギュッとかたくなに閉じた蕾。
時には踏まれてしまう雑草さえ。
チームという土壌の中で、大きく育つ。
厳しい冬に根を下ろし、花ひらく時は、今 。

拓殖大学陸上競技部 監督 岡田正裕さん

1945年、熊本県出身。
1967年、亜細亜大学3年生の時、
主将として箱根駅伝初出場。
卒業後は地元・熊本の醸造会社フンドーダイに入社。
営業畑を歩む傍ら、陸上競技を続ける。
1986年、スーパーマーケットニコニコドーに出向、
監督として女子陸上部を旗揚げ。
松野明美らを指導し、
全国に女子駅伝ブームを巻き起こす。
松野はソウル・オリンピック、
王明霞はアトランタ・オリンピック代表に。
1999年、母校亜細亜大学監督に就任。
家族のいる熊本を離れ、選手寮で生活を始める。
2002年箱根駅伝予選会を突破。
2004年3位、2005年7位。
2006年初優勝を果たす。
2010年2月、拓殖大学の監督に就任。
2011年箱根駅伝で拓殖大学歴代最高の7位、
2014年9位に導く。
著書に「雑草軍団の箱根駅伝」。

地域に愛されるチーム、その第一歩が挨拶だった。

今は早朝でも交通量が多くて、多摩川沿いを走れない。
練習は寮の周辺、味の素スタジアムの裏にある公園などでしています。

練習中、顔見知りになった方々から
「みんなで集めました」とカンパを頂くことも。
色紙には、散歩に来ていたワンちゃんの写真が。

公園はみんなの憩の場ですので我々が集団で走るというのは、色々な意味で迷惑をかけてしまう。
朝5:30から走ると「暗い時に危ないじゃないか」、「よちよち歩いてて風圧で倒れたらどうすんだ」といったお叱りもありましたが、徐々に減っていきました。 今は「若い兄ちゃん達から挨拶されて、元気をもらった」と市民の方々のお声が調布の市長さんの ところにも届いていると。
練習環境は決してよくないけれど、地域の皆さんから盛んに「がんばれ」という応援を頂きながらやっています。

日本から世界を夢見た、松野明美選手との出会い。

世の中で、女性が長距離マラソンや駅伝でも認知されるかなって時でした。
恩師から「おい岡田、女子の指導を手伝え」って言われた時は、
「なぁに?女が出るなんて。これは男のスポーツだ」って、失礼ながら思ってたんです。
それから縁あって、ニコニコ堂の監督をやり出した時に出会ったのが、松野明美という選手。
「監督、私はどうせやるならとことん頑張りたい」と。

そこそこやってもやったうち。 目いっぱいやって、そこに自分なりの思いをプラスしてやってもやったうち。 やるってことに関しては千差万別だと思うんです。 彼女はその一番上ね、もう絶対やるって感じで、毎日を過ごしてきた。
だから短期間で力も付けたし。私に出来ることは何でもしてやりたいという気持ちにさせられた。松野との出会いが、今の私の指導の原点として常にあるんです。

監督と営業マンをかけ持ちしながら。

私はニコニコ堂の監督をしていましたが、社員ではなく取引先に出向く形で、
女子の競技を見ていました。 ある日の練習は15:30から。
「みんな遅れないように集合しろ」と言いながら、私の仕事はお客さん相手の営業。
終わって必死で駆けつけたけれど10分ほど遅れてしまった。

そしたら女子の選手諸君から言われましてね。
「監督は人に厳しくて自分に甘い」
「そういう人のいうことの聞けますか!」って。

選手たちは、社会のこともなんもわからん子供でしたから。
でも女性というのは、こっちの気持ちが通じた時には 本当に応えようとしてくれる。
我々が実業団時代にやってた練習メニューを与えたら、涙流しながらでも歯をくいしばってやり遂げようとしたり。
女性特有の粘り強さ、 というか。

一緒に生活し、一緒に練習することでしか、
選手たちの姿が私には見えてこない。

女の子とは一緒にいられませんので、家から2kmぐらいのところに合宿所を構えて。
11時過ぎ、12時過ぎ、よく外から寮の様子を見に行きました。 きつい練習をして疲労したら、それをとるのは睡眠しかないんです。
いかに寝てくれてるかなっていうことが、いつも気になって。
あそこの部屋、まだ電気がついてる。
テレビのチラチラするのが見えるなって時には、メモをしておいて。 いきなりは言わない。
結果が出なかったり故障したり、その時初めて
「お前○月○日の○時頃、 電気ついてたけど。だから故障するんだよ」と。

私はこれもあれもって器用な人間でもない。
ただ陸上競技・長距離駅伝というものに対しての、私なりの気持ちは一本、一つでやってきた。
選手たちがいかに、いい選手としての走りを、生活をできるか。どうやって支えてやれるかって、
それに尽きるんです。

◆コーチの山下拓郎さんは、亜細亜大学時代、岡田監督から指導を受けた選手の一人。2006年、優勝した箱根駅伝では9区。絶妙なレース展開で1位に躍り出、区間賞を獲得した。 「監督からは学ぶことばかり…」恩師と共に日々、選手の育成に励んでいる。

選手のためにしてやれることは、全部してやりたい。

目配り、気配り、思いやり…。
当たり前のことですけど100%しにゃいかんなって。
選手たちが5:30練習開始だと、まだ暗いですよね。真っ暗です。
街灯のわずかな光の中を練習するわけですけど。

山下コーチ含めスタッフと、今、俺たちがしてやれることはなんだ?って。
コースに落ちてる石ころや棒切れ、そういうのを取り除いて選手たちが少しでも安全に、いい形で走れるように。
「これが我々の指導の姿ぞ」って。
ありとあらゆること、選手に障害があっちゃいかんし。
今、拓殖には60名くらい選手がいますが、まだ 私も努力不足というか。我々のそういう気持ちが全員に伝わっていないところもあって。
辞めていった子も中には…。

5月病、夏休みが終わっての10月病。

寮にいれば毎朝4:30には起きて、練習に出て行く。
また門限は10時ですから。夏休みなんてわずか1週間ですけど、同級生や友達とみんなで
夜遅くまで 飲んだり。「なんでお前たち、そんな苦しい生活してんの?」って。
たった何日か遊んだ時の環境に、なびいていく人が残念ながら出てくる。
辞めるって言いにくる時には、もう本人の中で決めてきてるんですけど。
私はその選手にこう言います。
レギュラーにはなれなくても4年間一緒にいて、必ずこの経験はよかったって時が来るよ。
ここまでやってきたんだから、頑張れって。

高校でインターハイに出たこともない無名の選手も、箱根で勝てた。

全部とは言いませんけど、有名な高校生を迎えようとしても、なかなか我々のところには
回ってこなかった。 オリンピックの松野を育てたっていうのは知られていても、
男子と女子とはまた別もんだって 考え方をされたり。
同じ「人」、男子も女子もないって私は思っているんですけど。

勧誘に行った時、必ず私が聞くのは「陸上は好きかい?」。
その前に先生にお話を聞く中で「彼は走る前にまじめですか?」
「学校のルールをしっかり守ってますか?」と。

そういうのを前提に「君、走るのは好き?」って。
ただ仕方なく「好きです」というのもね、話しててわかるんです。

朝から30kmとかいうと冗談じゃないって。
でもそれも慣れで当たり前にとらえて、当たり前に消化していくようになる。
「やれば強くなる、強くなるよ」って。
それを一生懸命、自分の姿を置き換えながら聞いてくれる素直な子が、やはり結果として強くなってきたかなって思いますね。

12月に入って熱を出した、故障した…
そういう選手は箱根を走らせない。

指導者の中でも、いろいろものが箱根には同居すると思う。 実は今回の箱根で使わなきゃいけない人間を外した。
その選手は26日の夜、一回だけ熱を出したんです。
次の日スッと引いて、練習も普通にやった。
でもお前の不注意だから外すと。
これは一方的な約束ですけど。 私の箱根に対する自分の信念でやってきましたんで。
今年は本人もつらかったけど、来年に活きるかなと思っています。

陸上をやってよかったな。
そういう意識、雰囲気を作ってやりたい

歴史はあっても、伝統がない大学に伝統を作る、これってどうやったらいいのかと、亜細亜の時に考えて。
寮のこうした壁や棚に、みんながもらった賞状とか盾をしっかりと飾ってやることも一つかなと。

何年か後に、奥さんを連れてフラッと寄りましたって時にも、ああ俺はこれなんだ。後輩に 「俺たち頑張ったから、お前たちも頑張れよ」って。

表に見える形であらわす、それも伝統だと。
私なりの思いをもって、倉庫に眠っていた写真を貼ったりしています。

競技人生より、普通に生きていく方が長い。

箱根を走って区間賞とってね、
それも自分の財産だけどそこからが人生。
ここで一生懸命、頑張った4年間をいかに活かすかが本来のあんたたちの姿だよ。
いろんな意味で吸収するものが沢山あるよって。
毎年、繰り返しそういう話をしてますね。

昔の同級生たちからよく
「お前、そんな気が長いとは思わんかった」って。(笑)
まぁ、そういった経験や年をとる中で、自分自身も変わってきたのかなって思いますね。
これから何年やれるかわかりませんけど、選手たちに出来る範囲内で、精いっぱいやっていこうと思っています。

※記事の内容は掲載時のものです

by T.I