インタビュー

貫く信念
「子どもたちの身になりきる」社会福祉法人 至誠学舎立川 理事長 高橋利一氏

社会福祉法人 至誠学舎立川 理事長 高橋 利一さんに聞く

'子どもたちと100年。

子どもたちと100年。
創設者の思いを継いで、つないで、さらにまたつないでいく。
ひとり、ひとりの子どもをみつめて。

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高橋利一理事長

編集部

100周年おめでとうございます。自分の子どもと分け隔てなくと言いますが、なかなかできないことですね。

高橋

私たちも子どもの頃からそういうものだと思って育ってきましたが、一般で言えば「それは仕事でしょ」ということですよね。でも施設にいる子どもたちにとっては、そう割り切れることではない。特に虐待を受けて来ている子どもたちですからね。

編集部

今の入所理由は虐待が殆どでしょうか。

高橋

そうですね。虐待、貧困、養育放棄、親の疾病。

編集部

100年という間には施設も変化を求められることがあったのではないですか?

高橋

100年のそもそもは菓子販売業だった祖父母が、人に頼まれて2人の浮浪少年を預かったのが始まりで、それも頼まれて預かったという所に祖父母の人柄があったのではないかと思います。
基本的には昭和23年まで少年保護の仕事でした。社会的に一定のジャッジを受けた子どもを引き取って、社会に復帰させるための施設です。
昭和21年に創設者の祖父 稲永久一郎が亡くなり、昭和23年にはGHQの指導によって解散を命ぜられた。
至誠学舎としてはこの先どうしていくかと迷いの中にあり、立川市の要請に応じて無償貸与で校舎として建物を提供したことで、3年間の空白ができた。東京都は早くに施設を開設するようにと言われましたが、この空白は考える時期でしたね。その間に社会のニーズを咀嚼しながら、いま社会が必要としているものは何かを考え養老院、乳児院や養護施設、母子寮という、制度によって作られた施設を選ぶことを考えたわけです。

編集部

いろいろな要請もありましたでしょう。

高橋

行政からは当面の仕事として母子寮をという要請は強かったですね。
でも三中ができるまで3年間校舎として建物を提供していたことから、認可がなかなか降りなかったんです。認可するための基本になるのが、建物のような生活する場所や一定の資産ですから。
そこで、忙しい農繁期に安心して農作業に従事できるように、畑の畝に置かれた篭の中にいる赤ちゃんを預かってあげましょうと、社会の側からはニーズとして提言されなかったけれども、地域の公民館などを借りてその間だけお世話することを始めたんですね。

編集部

まさに保育園の先駆けですね。前後しますが、GHQはどうして解散させたのですか?

高橋

こういった大変な仕事は国がやるべきだということなんです。
昭和22年に公布、23年施行された児童福祉法による養護施設は国の認可による施設。基本的には国の責任です。憲法でも最低生活を保障しているが、児童福祉法では親が養護できないなら国が代わって養護しましょうと謳っています。でも、子ども達がこの施設で求めるものはそんな簡単に割り切れるものではない。
結局公立にはできないので、全国的には90%近い民間の施設が公に代わってこうした子どもたちの養育にあたっています。

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開設当時の子どもたちと高橋利成施設長夫妻
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開設当時の園舎
写真提供:至誠学舎

編集部

では費用の面では最低基準はみてくれる‥‥。

高橋

最低基準というのは鉛筆2本、パンツ2枚とかのレベルです。
が我々は民間の施設ですから、もし自分の子どもだったらこれでいいのかと考えます。
国に理解して頂くにもなかなか難しくて、先代たちは自分の財産もずいぶん売っちゃったりしながら施設を護ってくれました。我々にもプライドがありますから、ものごいするような気持ちで施設は運営したくない。子どもたちのために毅然としたものは持っていたい。そういった姿勢を貫くところに、支援者が出てきて下さったんですね。
今は社会そのものが関心を持ってくれて、ある種の社会的責任を感じたり次世代のことを考えてくれる人が増えてきました。

編集部

理事長も5歳からこの環境に育って、葛藤とか疑問とか持たれたことないですか。

高橋

ありましたよ。親に対して自分なりのイメージは持っていましたから。
その親のイメージを多くの子どもたちに提供していくとすれば、自分には百分の一かもしれないなとは思いましたよね。

編集部

でも結果的には、ご自分もご両親と同じになっていかれた。

高橋

僕も小学生の頃にはパイロットになりたいなんて、小学校の作文にそれなりのことは書いていました(笑)。
それが一緒に暮らす多くの子どもたちと付き合うようになって、変わったんでしょうね。
小学校も一緒だったし、中学校も一緒だったし。
そして私たち夫婦も一緒に息子たちを育ててきましたが、園長の息子だからと思われないように常にバランスを考えます。

編集部

公平なんですね。

高橋

そう、公平なんですよ。息子にそういったことを聞いたことはないので、果たしてどうだったのかわかりません。でも、まあ、今はここで一緒に仕事をしていますからね。私たちの背中を見ていたのでしょう。

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至誠学舎の子どもたちが始めたクリーン多摩川
すでに45年続いている
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子どもたちと一緒に川を掃除する
高橋理事長

編集部

創設者の稲永さんご夫妻のお嬢さんたち5人のうち、4人が事業を継がれている。お嬢さん方も素晴らしいと思うんですけど、私はその配偶者の方々がすごいと思うんです。

高橋

その配偶者であるうちの父(高橋利成さん)も創設の阿(ほとり)観心さんや橋本良市さんも、みんなこうした社会事業への思いの中に信念のような「なるほど」というものがありました。
児童や保育、高齢福祉へと取り組み、こうして揺るがない歴史をつないでくることができたのだと思います。
動機は確かに2人の少年を自宅に引き取って育てたことですが、少年保護という仕事に対して創設者自身がその少年2人に教えられたことが、社会的なある種の責任であった。
自分たちも勉強しなければいけないと当時の保護団体の研修に参加し資格を取得し、ゆくゆくは認可されていく。そういったプロセスも大事だったと思いますね。

編集部

まさに「至誠」ですね。

高橋

我々は仕事とは思っていないのですが、使命として子どもたちに思いをかけて育てることで、今までは貧困の連鎖の中にいたけれども自分には将来がある、別の人生があると気づかせてあげたい。
ああ、学園に来て良かったなと言いながら、お世話になったと思う子は夜学に通って資格を取ろうと頑張っていますし、海外との架け橋になるのだと一生懸命勉強している子もいますし、大学で特待生になる子もいます。

編集部

すばらしいですね。

高橋

僕はよく大学に行きなさいと子どもに言いますが、誰にでも言えることではないです。無理を強いてもしょうがないので。でも昔なら中学を卒業して町工場などに入って育てられ、後に社長になって看板あげる子もいました。今はそうはいかない。大学に行って、施設出身者ではなく大学卒業生として自らの責任で社会に立ち向かうことを期待したい。

編集部

そこでも子どもの将来を考えてあげてるんですね。

高橋

ただし大学に行くにはそれなりの資金が必要です。奨学金を利用したり「あしながおじさん」を探したり。アルバイトで資金作りもします。18歳になると学園を出て自立しなければならないですから。

編集部

そうですね。立川にも学園に支援をしてくださる方々がたくさんいらっしゃるんですよね。

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クリーン多摩川45周年記念会で、清水立川市長から
感謝状を渡される三田鶴吉さん

高橋

ええ、三田(鶴吉)さんのように後援会を作って下さったり、三田さんが応援して下さって、またそこからいろいろな方が、表に名前を出さずに毎年寄付をくださったりね。
こちらが、例えば子どもたちのために庭を芝生にしたいとか、車が欲しいとか目的をはっきり伝えれば、中古車でも提供しようとか、借金があるならその財源を提供しようと協力してくださる方々がおられる。
これからはみんなで一緒になって子育てを考える、そんな人たちの集まりにしたいんですね。

例えばこの「大地の家」にしても、0歳児からの養護施設という今までの制度にはない新しい発想に協力がいただけたんです。

編集部

0歳からの養護施設も社会のニーズなんですか。

高橋

むしろ子どもの身になった私たちのニーズです。
0歳から3歳までの自我の形成期というのはとても大事です。
現在の制度では、2歳で乳児院から養護施設に移動します。環境も変わるし、人も変わる。家族にとっても新しい人間関係を作らなきゃならない。

編集部

母親学級でも3歳までは大事と教えられます。そこで環境が変わるというのは、不思議ですね。

高橋

大事件なんです。ただ、2歳、3歳児にとったらそれが大事件かどうかはわからない。
現実に起きている変化の記憶はないから。
でも心の中に焼き付けられるものは、情動記憶というのでしょうか、無意識の中に忘れられないものが記憶として残るんです。だからこそ大事にしてあげたい。

親の代わりはできないけれど、その子に対して年齢に応じた支援として、より多くの経験を、例えば動物園や遊園地、海や山へに連れて行ったりする。その経験は現実ですよね。すると子どもは、そういえば動物園に行ったな、それは施設ではなくて、もしかしたらお母さんに連れて行ってもらったかもしれないと。
そんなパーツだけ取り替えることが、こういった施設ではできるんです。

編集部

理事長のお話を聞いていると、1つひとつに仕事を超えたある部分がないとできない気がします。

高橋

おのずと子どもの代弁をしているのかな。

編集部

それを、100年でしょう。

高橋

そうですね。引き継ぐということは大変ですが、我々が同族的な部分に支えられたこともあると思います。
また我々の思いを代弁して下さる方がいらして、地域の中でも支援したいという方が増えて来て下さった。
多くのボランティアの方々が仕事を支えて下さっているんです。

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現在クリーン多摩川は10団体が協力、支援している。
協力団体を代表して45周年記念会の
開会の辞を述べる真如苑代表者の方。

編集部

100年を迎えて、これからは?

高橋

僕の経験から、お金ができたらやろうではもう遅い。
この子どもたちのためにお金がなくてもやらなきゃならないことはやらなきゃいけない。
Here & Nowです。今ここで何ができるかです。
これだけ社会が豊かになってくると、建物も貧しいものでは子どもたちが満足できない。
建物もある程度、子どもたちが自信をもてるものにしないといけない。建物が新しくなった時、子どもたちは「ああ、友達が呼べる」と言いました。それでなくても社会は「施設っていうのは」‥。

編集部

という目で見ていますものね。

高橋

見ています。マスコミが取材に来ても、ここは立派過ぎてダメだって。
じゃどういうのがいいんですか?って聞くと、もっと田舎にあるような木造の小学校のようなって、ああ、そういう目で見ているんだなって思います。
確かにドラマに出てくるのはそういうところですよね。社会の変化に伴って、施設も変わるんです。
そのためには借金もします。

編集部

子どもたちの身になって考えるんですね。

高橋

そうなんです。その「子どもたちの身になる」ということがずっと先代たちから続いていることです。

編集部

そう言えば、タイガーマスク来るそうですね!

高橋

この学園には昭和27年にもうタイガーマスクが現れました。
慶応義塾大学のライチウス会の学生さんたちです。

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もう50年以上、労働奉仕からマンツーマンの子どもたちのお兄さん、お姉さんとして、先輩から後輩へと続いています。お顔がわかるとこうした意味のある支援もお願いできると思うんです。

またここには毎週学習塾の先生が5、6人来られて、勉強を見るボランティアをしてくれているんです。
そのもともとがタイガーマスクなんですよ。是非ランドセルを寄付したいと。でもそんなに1年生ばかりいるわけではないからということで、それならば学用品の分として寄付しましょうと、社長が上乗せしてくださり寄付をいただきました。
顔が見えれば、違った形にしていただくこともできるんですね。

そのお礼に僕が社長を訪ねた時に、子どもたちがもっと自信もって学校で手を挙げられるようにするにはやはり塾で勉強できたらと話して、学習支援という形で先生が来て下さるようになったんです。勉強を見ていただくと、子どもたちの学習意欲が高まりできるようになっていくんですね。
こうしてできる範囲で関わっていただくことで、子どもたちは自分を見つめ直すチャンスを得て、自分で可能性を引き出せるんです。

編集部

すごいですね~。

高橋

子どもたちの中には、園長先生、今に僕が学園の借金返すからなんて言う子もいます(笑)。
僕はありがとうって言いながら、一番いい恩返しは良き納税者になることだよ、と言うんです。
本当に自立するということは、税金の払える人になるということですからね。
やればできるのだという可能性を知って、人生の、自分が主人公になる。
私たちは自立を支援することで、貧困の連鎖、痛みの連鎖を断ち切る自分が育つと神事、決して見捨てない、あきらめない、そして見守っていくことが大切であると考えながら、共に生きています。