インタビュー

浅田次郎さんと30分 ――ドキドキの時間でした――浅田次郎氏

'立川市のお隣日野市にお住まいなのだとか。
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編集部

昨今流行の電子書籍について、先生はどのようにお考えですか。

浅田

全く先行き不透明でね、流れからいったらいずれあのような形になっていくのだろうと誰も想像するんだけれども、実は昨日今日言われ始めた話じゃない。もう20年も前から言われているんだよね。その動きも具体的にあった。
僕は自分の著作については全部電子書籍化を認めているんだけれども、それによってどのくらい読まれているかが自分で把握できる。しかし殆ど数字が出ていない。
最近になっていくらか増えたかとは思うが、まあ、スマホの使用頻度を考えたら、読まれている本の数とは比べものにならない。
世の中が騒いでいる程電子書籍の利用は伸びていないというのが実感だね。

編集部

では著作権などについても影響ないとお考えですか。

浅田

ほとんど影響ない。むしろ景気によって本の売り上げが低迷していることの方が、はるかに大きい。
あるいは、本が読まれなくなったという現象の方が、はるかに大きい。

編集部

本屋に並ぶ新刊は多いのに、本は読まれなくなりましたね。なぜでしょう。

浅田

読書以外にやることが多くなったということでしょう。
電車に乗ると殆どの人は携帯を見ている。本を読んでいる人は殆どいなくて、携帯を見ている。
で、携帯を見ている人はあの携帯で本を読んでいるかというと、それは殆どいない。
ゲームやっているかメール打ってるか。つまり他にやることなんだよ。
読書っていうのは、本来自分の知識、教養を高めるべきものであるんだけれども、これは建前だな。
本当は本を読むしかやることがないから本を読む。

編集部

先生はすごい読書家ですよね。

浅田

うん。僕らの時代には本でも読むしかなかったんだよ。僕らの頃にはコンビニがあるわけじゃないし、ゲームがあるわけじゃない。テレビだって11時になれば終ってしまう。だいたい学生下宿にはテレビもなかった。
そう考えれば、本を読むしかなかったという大変幸福な時代だった。
だから一概に、今の若い人たちが本を読まなくなったのは彼らの責任かっていうと、それは基本的には社会全体の仕組みのせいだと言える。
僕らは本でも読むしかなかったけれど、今の人は進んで読まなければならない。
他の興味を排除して本を読まなければならない。その現象は大人も同じ。

編集部

なるほど。でも今さら昔に戻すわけにもいきませんよね。

浅田

自覚を促すしかない。教育の現場ではちゃんとやってるでしょ。
時々危ないなと思うのは、読書を勉強にしちゃってることがある。やっぱり読書は娯楽だよ。

編集部

先生は読書もですが書くのもすごいですよね。書くって大変でしょ。

浅田

好きなんだもの。

編集部

書くことが。

浅田

好きだよ。
嫌いでやっている人は原稿を見ればわかりますよ。
いやだいやだって言いながら書いている原稿。
やめちまえって言いたくなる。

編集部

小説家って売れるまでだって大変じゃないですか。家族を犠牲にするみたいな。

浅田

あのね、家族を犠牲にして小説家になったって話は聞いた事がない。
小説家のイメージって、「ヒモ的存在で若い頃過ごしている」みたいなところがあるでしょう。
トルーマン・カポーティの『ティファニーで朝食を』っていうのに出て来るなぁ。あの一人称の主人公はまさにそれなんだけれども。現実にはいないと思うよ、あれ。

他人(ひと)に飯食わしてもらって自分は小説書こうなんて甘い根性でなれるほど、簡単な仕事じゃない。だからよくあるパターンっていうのは、きちんと大学出てきちんと会社へ勤めながらコツコツと。そういうものだよ。

編集部

はい。

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浅田

僕も酒を一滴も飲まないけれども、実は小説家で酒を飲まない人は多いんだ。これはかわいそうな話で、つまり若い時分にそういう時間を削っていたんだな。
僕だってそうだよ。酒って飲んだことがない。これを飲んだら今晩の読み書きの時間がなくなるって思っちゃう。
読み書きすることが好きなんだよね。酒によってこの時間が取られるっていうのがたまらないわけ。だから覚えなかった。
うちの家族はみんな大酒飲みなんだけれども、一滴も飲まなかったのはひたすらそれだけ。
でも好きなことのためにそうしているわけだから、ちっとも偉くはない。つまりそのくらい努力しなけりゃっていうのは当りじゃない。そのくらい好きじゃなきゃだめっていうことです。

編集部

テレビはご覧になるんですか?

浅田

テレビは好きだよ。テレビ、1日4時間くらい観ますね。テレビを全否定する人いますけど、テレビを観ないと社会性に欠ける。視野が狭い。その分本を読んでいるかもしれないが、社会性という土台がなければいけない。あらゆる教養だよね。

編集部

先生は視野は広すぎると思うくらい広いですよ。自衛隊まで経験されてらっしゃるんですもの。

浅田

見ていて面白い、つきあって面白いっていうのはロウアーな人が多いよ、やっぱり。
苦悩を背負っている人ほど味があるし、面白い。

編集部

先生のご本は泣けちゃいますね。『鉄道員(ぽっぽや)』の中の作品は、何回読んでもウッって胸つまるものがある。大好きです。

浅田

忘れちゃったな。

編集部

じゃあもう一度読んでみて下さい。泣けちゃうから。

浅田

そう。後から書いたものの方が、もっと泣けるよ。

編集部

先生はどうして泣かせちゃうんでしょう。先生のような大家に「上手」っていう言い方は失礼なのでしょうが、泣かすの、上手ですよね。

浅田

自分じゃ考えていないんだけどね。書く本人ていうのは冷めているもんだから。

編集部

書き手は冷めてないと感動させられないんですね。

浅田

冷めてない人の原稿っていうのは引くよ。やっぱり。
それと、泣かせようという気持ちが1行でも表れていたら、これはあざとい。これまた引きますよ。
小説書く時って言うのは、「美しくわかりやすく面白く」これ以外ない。芸術の表現は何でもそうだけれど、「美しくわかりやすく面白く」。これ以外を考えたらだめ。人を感動させる力ってそれ以外ない。
哲学で人は感動しないよ。もちろん表現するには教養が基盤にないとだめ。なきゃだめだけど、いざ表現するぞって筆を執った時には、この3点以外を考えてはだめ。それがうまくいった時、美しくてわかりやすくて面白く書けた時、読者はみんな泣いてくれる。感動の正体っていうのはそういうものだもの。
だから、「お涙作家」なんていう言い方されるといやだけれどね、そんな簡単なものではないぞって言いたいけれども、泣くっていうことが感動の結果だと思えば、表現者の勝利ですよ。

編集部

取材はどうされているんですか?

浅田

そりゃ書く時間より、取材してる時間や考えている時間の方がはるかに長い。
書く速さはそんなでもないけれども、人間の労働時間が1日8時間ていうのは、妥当なことだと思うんだよ。
24時間を3等分したら、8時間寝て、8時間働いて8時間自分のために使う。そうすると、1日8時間机の前に座っていて3年に1冊のわけはない。1日1枚書いても、365枚になるんだよ。

鉄道員(ぽっぽや)』は400枚だから、1日1枚書いても1年でこの本はできることになる。
あとはだから自覚だろうなぁ。クオリティをどの辺に求めるかっていう‥‥。

編集部

すごいと思うのは、時代考証的なことや方言だけじゃなくて、たとえば女性の描き方。お化粧とか、意識しない女性の仕草とか。

浅田

その1行で女になるんですよ。その1行書くときは女になるんです。

編集部

すごい。しかも『糸里』(『輪違屋糸里』)なんて、糸里ひとりじゃない。

浅田

むずかしかったよ。
女房が気持ち悪がってたもの、あれ書いてる時。
娘も気持ち悪がって。

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編集部

どうして気持ち悪いんですか。

浅田

そういう女みたいな顔して出てくるんじゃないの。

編集部

ほんとに女になるんだ。

浅田

3視点か4視点、全視点女の視点だからね。
男の視点で見たものがひとつもない。

編集部

たとえば太夫の八の字なんて、やってみちゃうんですか。

浅田

やらないけれども(笑)。もし自分だったらっていう感じだよね。
先輩作家に言われたよ。なんでこんなもの書くんだ、男なら男で書けばいいじゃないかって。

編集部

どうしてですか。 すばらしいのに。

浅田

個人的に知ってると気持ち悪いんじゃないかな(笑)。

編集部

すごく女の人たちがきれいだった。だから映画化されるんですね。

浅田

やっぱり自分をワープさせなきゃだめ。ものを作り上げる時には。
客観的に見る‥‥僕は川端(川端康成)さんみたいな書き方に憧れたんだけれどね。
なんでも客観的に冷たく見ていく方法もあると思ったんだけれども、やっぱり自分にはそれだけの才能がないなと。その方法であんなに立派な作品を書くだけの才能がね。
だから僕は完全に放り込んじゃって、その中で書いていくしかない。

編集部

肩、こりませんか。

浅田

こる。すごい肩こりがある。左がこるんだよ、右で字を書くから。

編集部

それでもやっぱり原稿用紙に手書きですか。

浅田

僕はよくわからない‥‥パソコンで書くって。
字を書く行為そのものが一種のエクスタシーを伴うだろ。 伴わない人もいるかもしれないけどさ。
絵を描くより写真撮った方が速いだろうっていうのと似たような感じがするんだよね。
写真家が登場して写真を撮るというのは、全く別の話だよ。
風景画描くなら写真撮った方が速かろうっていうのは違うだろう。 そういう猥褻感を感じるんだよね。

それと、やっぱりいろいろな選考会に携わったりしていると、
ワープロで始めてワープロで最後まで書いている人はうまくならない。
まあ、今はみんなそうなんだけれど。成長力がないね。それは体に負荷がかかっていないせいだと思う。

日本語の基本、いい文章を書く心構えは、
いかに最少の文章で最大の世界を言い表すかっていうことなんだよ。
だからこそ俳句や短歌っていうのは不滅であるわけ。
芭蕉の一句に触れたとき、人はその向こうにあるものすごく大きな世界を想像する。
あれが日本語の極意だと思うんだ。
いかに少量の表現で大きな世界を見せるか。

ところがパソコンはね、文章を積み上げる。
この1行を言うために10行使う。
言っても言っても言い足りない。これは労働力が軽いから。
字を書くっていうのは肉体労働でしょ。
字を書いていると、体が自然に命じてる。
3行で言う所を1行で書く方法はないかと。
だから凝縮された文章になる。
これを積み重ねていくと、文章は上手になる。
そこが成長力の問題。

僕は若い人たちにはよく言ってるんだよ。
「百も承知しておけよ。
 お前の文章はこれ以上うまくならないぞ。
 だから他のことで考えろ。文章はここまでだと思え」って。